こんにちは。まっちゃあずきです。中間テストの結果は大成功です。
今回も報告しますね。
わが県では1科目50点満点ですから、100点満点の県の人は2倍して考えて読んでください。
中1は前回より人数が増えて少々平均が下がりましたが、学校平均よりも+58.3点差の186点。
中2も前回より塾生が増えて下がるだろうと思われたところ、逆に上がって197.6点が塾生平均です。
平均点格差は前回よりも下がりましたが、+59点です。
中3は夏休みの学習を経て、ものすごい成長を見せる時期。頑張った子とそうでない子の明暗がくっきりはっきり分かれる時期。
学校平均点は下がっています。
うちの子らの平均も13点上がりましたが、個人としては前回より46点アップした生徒が出ました。前回も50点アップした子が出た学年ですが、それとはまた別の子ですね。
前回アップした子は、キープ。基盤ができてきたようで何よりです。
では、この結果をもとに「勉強って何だろう」を書いていくシリーズ3回のうち1回目。
勉強には「理解」と「暗記」と「演習」
「理解」に時間かけすぎなんじゃない?
勉強していく上において、理解をするのは基本です。
こんなことはわたしが書くまでもなく、誰だってよくわかっています。
では、理解したから問題が解けるのか、理解したから暗記も深くなるのか、理解したことはすべて実力に繋がるのか――。
新しいことを習う。
今の教育の学習量の1.7倍くらいはあった昔の授業で私等が学習した行為は、あくまで授業の「説明」を聞くものであって、「理解」と「暗記」は自分でするものだという意識と態度が、その根底に当然のようにあったように思います。
その「理解」と「暗記」が自分で充分できない者は成績が悪く、充分できる者は成績がよい、という単純な図式があっただけです。
それがいまや、学習内容がずいぶん減らされたにも関わらず、生徒の理解力は低く暗記力も弱くなっている現実に、首をかしげているのは私だけではないでしょう。
また一方の現実では、授業のねらいは、生徒にいかに「理解」させるか、この一点に集約されているかにみえる。理解に重点とすべての価値を置き、丁寧に説明をし、生徒に考えさせる時間を随分多く取っています。
学校では十二分に考えさせられる時間を与えられ、新しく習う基礎の知識の理解に、これでもかというほど重点を置いた授業を受ける。
塾では十二分に考えさせられる時間はないにしても、その代わり、同じ内容の理解をポイントやコツを交えて教えてもらい、効率よくそして要領を得た知識をつけてもらうことになる。
それゆえ、授業を受けたその場では生徒本人は理解したと思うのは当然。
新しい内容の問題をすらすら解くことができるのは、なんら不思議なことではない。
ここに、ひとつの落とし穴がある。
つまり、本人は理解したと思っているから。
この意識と感覚で勉強を進めている生徒が、いかに多いことか。
しかしその理解の姿と内容は、自分の頭を痛めて奪い取ったものではなく、ただ手を前に差し出して、たまたまそこに載せてもらったに過ぎないものだから、すぐに手の指のあいだから落としちゃうんですね。(忘れちゃうということです)。
だから、定期テストのレベルではいい点数が取れたとしても、あくまでそれは基本のレベルの問題に対してであり、それですら時間がたてばあっという間に磨り減って力が凋んでしまう生徒は後を絶たない。
1,2年のあいだの実力テストというものの正体は、まだ基礎と基本的な知識を連結あるいは寄せ集めたに過ぎないのだが、それでもふだんよりガクンと成績が下がる生徒の多くは、その大きな原因として、「理解する学習とその周辺」にとどまっているだけではないか、と考えています。
理解したから問題が解けるのか、がはっきりするのは、習ったそのときではなくて、だいぶ時間が経ってからのことでしょう。
理解したから暗記も深くなるのか、は一般の常識と外れて、関連性は思うほどないよ、と思っている。
理解したことはすべて実力に繋がるのか、もまったく生徒の勉強の姿、現実を観ていない問いです。
「理解」は勉強の中心じゃない
理解は勉強の目標でも中心事項でもない。
勉強の目標は一度習ったことはすべて覚えてしまい、その知識を実力として蓄えることである。
1を習えば1を、5まで習えば5の力を、
10まで習えば10の力を、
そして100まで習えば100の実力を有することであるのではないでしょうか。
そういう実力を備えていくには、「理解」と「演習」と「暗記」の3つの学習を充分意識して積んでいくことだと思っています。
またこの3つをセットにして学習していかなければ、その学力は充分なものは得られないと思って間違いない。いずれの一つが欠けても、いずれの一つが弱くても、まともな実力は形成されません。
例えば、授業全体を10としてそのうち6,7の割合が「理解」に費やされ、残り3,4の割合が「演習」にまわされているのだとします。
それにも関わらず、応用ではなく基礎の理解すらできていない生徒、時間が経つと基本の知識すら抜けて忘れてしまう生徒、あれほどしっかりと理解はしていたはずなのに問題の解き方や注意点がぼやけて自己流になったり、雑になったり、そして同じミスを何度も繰り返したりする生徒など、その現象と度合いはまちまちながら、いずれの場合もまともな実力形成は為されているとは決していえず、これらすべて含めると、その割合は半数どころか軽く4分の3を超えている現実が浮かび上がってくるわけです。
どうでしょう?
数学に問題演習がないなんて考えられませんけど、実際、生徒らに聞いてみると「理解」は7。「演習」は1、残りはできない子をフォローする、待っている間におしゃべりをしたり、宿題をやったりで2の割合だそうですね。
数学でこれですよ。文系教科が「演習」なんてやっている筈がありません。英語は教師によりけりでしょうが、社会なんてえのは、垂れ流し授業にしかなりませんよ。
勉強には「理解」と「演習」と「暗記」の3つが大事
いずれか一つ欠けても、いけない。いずれか一つ不満足なものがあっては、いけない。
でも、数学と英語では違うでしょう、理科と国語では違うでしょう?
いいえ、同じです。
どれが欠けても成り立たない。
まったく同じ価値です。
では、生徒の勉強で欠けているものとは?それは、「演習」と「暗記」でしょう。
ただし、「理解」も実は足りない。理解は、ほんとに易しいことは除いて、初めに一度だけでできるものではないでしょう。
つまり、初めに人から教えてもらってわかる理解はまだ薄っぺらなもので、まだ自分のものに本当になっていないところが多分にあり、自分の頭で再度考えることが大切です。
さらに演習を通して知る理解、徐々に深まっていく理解もあります。また暗記をしてる最中に、新たに得る理解だってなかにはあるんです。
新たな内容の初めにだけあると区切らないことが大切です。
だから、もっと「暗記」と「演習」に力を入れるべき。
個人レベルだと難しいというなら、スマイルゼミをおすすめします。
でも、本当は各自の教科書や副教材で十分できるものなんですけどね。そんなこと言ったら学習塾そのものもいらないんですけど。
次回は「演習」と「暗記」について。
きょうはここまで。